1997年3月3日月曜日

「眠り口銭」について考える

「総合商社は斜陽であるか」と題する論文が論議をよんだのは60年代のはじめであった。これ自体は既に歴史上の出来事であり、いまや記憶している人も少なくなったが、商社マンどうしで話していて、いまだにこの種の議論に遭遇することがあり驚かされる。日本経済の先行き不透明感が「総合商社も果たしてこのままでいいのか」という危機意識につながっているのだろう。

とりわけ問題視されるのは「眠り口銭」取引というもので、この言葉はほとんど禁句に近い。商社マンは「眠り口銭」などとんでもない、商社はこんな機能を提供しているのだとむきになるのが普通である。でも列挙される「商社機能」を具体的にブレークダウンして、その対価を専門会社に分離発注したとしてコストを積み上げてゆくと往々にして矛盾が出てくる。最後はまあまあで終わるがこれは問題である。

誤解のないようにいっておくが商社機能の強化が望まれると常識論をいっているのではない。ましてや商社無用論を展開しているのでもない。商社マンが自分が担当する取引について、商社の介在の正当性をきっちりと説明できない場合があることを問題視しているのである。新入社員も入ってくる。若手の商社マンももっと理論武装をする必要がある。

考えるに、商社の受取口銭を現時点で商社が提供しているサービスの量でのみ説明しようとするからいろいろ無理が生じるように思う。商社の口銭は現在と過去、さらに“未来への期待”というの三つの時点にまたがる商社サービスの対価であるが、とりわけ過去のサービスに対する報酬という性格が強いからである。

商社の最も基本的な役割に取引関係の構築がある。そのため商社は多大の先行投資もし苦労に苦労を重ねて数多くの取引関係を作り上げてきた。苦労のすえ考えついたという点でそれは知的所有権にも似ている。このような参加者全員にメリットを与える取引においては、関係者が享受しているメリットの一部をこの取引関係を創案して実現させた商社に口銭として支払うことになる。取引関係の普請代が分割延べ払いになっているとも言え、商流のなかの商社サービスだけでこれを説明しようとすると「眠り口銭」のように見えるのである。

人が作り出すすべての商品の例にもれず、商社が工夫し、提案し、ようやく実現させた取引関係にもライフサイクルがある。はじめのうちは関係者すべてに多大のメリットをもたらしたものだが、徐々に成熟し古くなり陳腐化していく。

そこで商社マンがやらねばならないことは、陳腐化して旧式になった取引関係にむやみにしがみつき、抽象的な商社機能をむきになって主張するのではなく、もっと未来を指向し、有利で新しい取引関係を工夫し、関係者に提案し、実現させ、取引関係に新陳代謝を図ることではないか。

グローバル化のなかで、産業構造は大きく変化している。世界中の企業にとって、新しい時代に適応するため、アウトソーシング化も含めた革新的な取引関係の構築が課題となっている。取引関係の創造者である商社への期待はますます高まっている。